実家に帰るのは久しぶりだ。
二十歳で一人暮らしを始めて以来、「たまには顔を見せてよ」と言われない限り帰らない。前回帰ったのは、去年、父が定年退職した時に家族でお祝いした時だっけ。
家に着くなり父が「最近、ピアノを始めたんだよ」と言い、そそくさとピアノの前に座った。美空ひばりの『川の流れのように』を弾いているようだ。父の好きな曲。自分で買ったのか、安っぽい楽譜を見ながら右手の人差し指一本でたどたどしく弾く。
「結構うまいじゃん」
とっとと演奏をやめてほしくて新聞のテレビ欄を眺めながらいい加減に声をかけると「今のはちょっと違った。もう一回だ」と、父はまた同じ曲を弾き始めた。
「どうせなら教室に通えば?その方が上達早いんじゃない?」 思いつきで言ってみると「そんな。お金が勿体ない」と、父はぶつぶつ呟いた。
自分の為にはお金を使おうとしない父親。
たまには親孝行でもするかと『お父さんのためのピアノ教室』なるものを探し始めた。実家の近くで三ヶ月間の初心者クラスを見つけると、父の名で勝手に申し込んだ。
父はパンフレットを見るなり「なんだ、遠いじゃないか。水曜日?水曜日は忙しいんだよ」退職して暇を持て余してるくせに、何だかんだと文句たらたらである。
「とにかく、もう申し込んじゃったんだからちゃんと行ってよね!」喜んでもらえると思っていたのにケチをつけられ、私は不機嫌だった。
二週間後、母から電話がきた。
「お父さん、毎日ピアノ練習してるよ。最初のレッスンで楽譜を読めたのがお父さんだけだったの。先生に褒められてすっかり有頂天」と笑う。私は満足だった。
それきり父のことなんか忘れて、毎日仕事やデートやショッピングに明け暮れていた。
ある日、留守電に父からのメッセージが入っていた。無口で、用事がある時は母に伝言を頼む父にしては珍しいことだ。
「え〜と。今度の土曜日、ピアノの発表会があるんだけど(沈黙)。よかったら(もごもご)」
遠慮がちな短いメッセージ。
毎週土曜日は彼が私の部屋に来て、一緒にお料理したりビデオ見たりして過ごすのよね。でも、ま、仕方ないか。
土曜日、少し遅れて会場に入ると、既に来ていた母の隣のシートにすべりこんだ。
「お父さん、まだだよね」
「うん。まだ始まったばかり」
舞台の上では父と同じような年格好のおじさんが演奏している。意外とまともに弾いている。
「あれ?楽譜も読めないような超ド素人ばかりじゃなかったの?」母にささやくと「最初はね。でもみんなどんどん上達してあっという間に追いついちゃったのよ。お父さん、そりゃもうがむしゃらに練習してた」とくすくす笑う。
負けず嫌いな父らしい。
私が実家に残していった古ぼけたピアノに向かい、背中を丸めて一生懸命練習する父の姿を思い浮かべた。
おじさんの演奏が終わった。身内らしき集団からは大喝采。ハンカチで目頭を押さえている人までいる。
(やれやれ……)
シラッとした気持ちで眺めていたら次に父が出てきた。
両手で楽譜を握りしめ、動きをセットされたぜんまい人形のように、カクカクと舞台中央のグランドピアノに向かう。客席へのお辞儀も忘れてあたふたと楽譜を楽譜台に置くと、椅子をがたがた調整したり咳払いをしたりで一向に弾き始めない。
(もお、何やってんのよ)
でもその時気づいた。鍵盤に気功を送っているかのように宙に浮かんだ父の両手が震えている。
『弾こうか。どうしようか』
父の緊張と恐怖が伝わってくる。客席はしんと静まり返って父の演奏を待っていた。
ようやく最初の音が会場内に響く。続けて次の音も。美空ひばりの『川の流れのように』だ。五本全部の指を使い、しかも両手で弾いている。たった三ヶ月間でここまで?
演奏はお世辞にも上手いとはいえなかった。
『川の流れのように』どころか、行く先々で流れが岩にぶちあたるかのように、がくん、がくんとテンポが崩れる。盛り上がる部分では、情感を出そうと大きくたたいた鍵盤がすっとんきょうな音を出す。父の焦りが伝わってきた。
(お父さん、落ち着いて)
私は心の中で励まし続けた。私の頭の中では『川の流れのように』のメロディーがぐるぐると回っている。
テンポが落ち着いてきた。
指から力みが抜けてきた。
父は曲の情感に合わせて体を前後に揺らし、首を振りながら弾く。ほんとにこの曲が好きなんだ。
弾き終わって立ち上がったとき、父は初めて客席を見渡した。私はわざとらしいほどオーバーに手を叩いていた。隣の母も立ち上がらんばかりの勢いで手を叩いていた。父が私たちの方を見て、照れたように、そしてほっとしたように軽く笑った。
しらっとした回りの人たちの視線を感じながら、私たちは精一杯の拍手を送り続けた。
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